復元名古屋城には、エレベーターは必要ない!
- buzen03
- 2023年7月9日
- 読了時間: 9分
更新日:1月23日

始めに
どうして、障害者側も名古屋市側もエレベーターに拘るのか。双方とも何故、歩み寄ろうとはしないのか。感情的なものの言い合いと、自分達の主張だけに固執するのか。都合の良い正義、差別意識、平等、自由と云うものと同様な思考の右か左か、Yes か No かと言う発想しか出来ないのか、理解不能です。

結論から言います。名古屋城には、エレベーターは必要ありません。
唯一、現存する城の図面が残っているのは名古屋城だけです。当時のままに復元可能です。復元築城後、5年位で城としての風格が備わり、そこから徐々に日本人好みの侘び寂が出来上がり、城の完成と成るはずです。ただ、ほんの少し手を加える事となる可能性もあります。日本人の職人技であれば対応できるはず。
国宝第一号:1940年位の名古屋城
米軍空襲前の姿
エレベーターの代替え案。

1、自走式車いす
スイス連邦工科大の大学生の方が開発した、「Scewo」を参考。
この動画を見れば一目瞭然。特に説明の必要性すらありません。但し、復元される名古屋城の階段幅がどの程度なのか、私にはわかりません。この自走式車いすの幅に満たないのであれば、ほんの少々拡張するだけで良い。エレベーター設置よりは遥かにましです。それに、実際の階段の傾斜を体感する事が出来ます。十数台常備。
こちらの案が、復元名古屋城にとって最良と思われます。

2、階段用スライドリフト
ダイコー株式会社参考。
こちらも動画を見れは納得の製品。このタイプは「からくり式」とし、通常の階段とは別の所に設置。そして、収納した際には存在が分からない状態に成るよう細工仕掛けとする。また、機器に関しては、障害者ご自身所有の車いすごと昇降可能でも良い。
階段自体、必要ないかも。

3、車いす用リフト
㈱モルテン健康用品事業部参考。
こちらも動画を見れば納得出来ると思います。但し名古屋城の場合、下階から上階までの高さを満たす必要性があります。そしてこの機器の設置場所は、階段横か各階に納戸の様な部屋が有ればそこを利用する。天守閣最上部までは下階、上階で機器を左右にずらし設置。

それにより、ほぼ垂直状態で昇降する
事が可能(各階ごとに乗り降りする)。又、階によっては一部、移動する可能性も有りえる。階段横や納戸の設置の際、一見その存在が分からない様に仕掛け作りとする。これも職人技を必要とする。日本人職人であれば可能。
参考としては、歌舞伎や舞台のせり上がりを思い浮かべて頂かればよいかと思います。

4、将来的には、この様なものも有りかな。アニメ、未来少年コナンに登場する、作業用ロボットの「ロボノイド」
人が乗った状態で高さ170㎝位。
ジャイロ搭載で決して倒れない事や搭乗し動いた際の衝撃を無くす事が条件。
これが、出来た場合軍事転用されるかな。土木や林業等、その他多くの場面で幅広く活用できる。特に威力を発揮するのは、災害時や復興時であろう。
・石垣の調査に多大な時間がかかる事自体も理解不能です。
基本、高性能のデジカメとPCが有れば良いだけなのに。
技術の愛知エリア。
出来れば、1の自走式車いすをそのまま利用するのではなく、地元企業やベンチャー企業が新たに開発してくれることを望みます。その他の機器も同様に、既存の企業や新たな企業の参入を望みます。
その理由としては、新たな産業育成と障害者の方への利便性の向上に繋がります。
そしてこれらは、日々技術革新が行われ、最新の機器を名古屋城で検証する事も目的とする。全ての機器は、安全が担保出来る事、これ絶対条件です。
この様な技術をウクライナの負傷した人達に提供する事が日本の使命でもある。
また、時期を置いてロシアの人々へも供与すべきである。そして、その他の国の必要とする人達にも供与する事。
日本だけは偏ってはいけない。そういう国です本来の日本の存在は。

現在の日本は、欧米のペット状態。
とりわけ、米国のペット以下の実験用マウス=日本政府。少なくとも時代背景の違いで、遅れて来た帝国主義に走った大日本帝国には少々落ち度はあるが、当時の国民を食べさせる為や欧米列強に支配されぬ為、止む応得ない事情があった。
しかし、敗戦までの明治以降の政治家には、欧米列強相手でも怯まぬ確かなる気概があったのも事実です。疑問にも思わず、調べようともしない多くの国民。GHQの洗脳のままの文科省や政府の方便を鵜呑みにする国民が多すぎ。米国の行う事全てが正しいと思い込む情けない日本政府や国民が非常に多いです。あっ!
米国から独立しようともしないんだった、日本政府や多くの日本国民は!!
国宝第一号、名古屋城破壊 名古屋空襲
米軍による虐殺行使。大量の焼夷弾投下。これは戦争を早く終わらせる事が目的ではなく、一人でも多くの日本人を殺すことが最大の目的であった。
話を戻します。
一例として、漆。現在では粗悪な輸入製品を余儀なく使用しているのが現実。これを国内に戻します。漆の木を植林させ、本来の漆を使った調度品や漆器等の復活。また、伝統技術が消えてしまったものや消えそうなものを復活。
えっ、名古屋城の為だけ?と思うのは誤り。全国に昭和以降、鉄筋コンクリート造りされた「おもちゃの城」が沢山存在しております。それら全てを破壊し、新たに主要城主と思われる時代の城を、史実に乗っ取り復元させる事(安土城以前の館造りもあり)。
何より、復元名古屋城の築城こそが、日本の産業革命の始まりと成るでしょう。全ての資材や機器は日本国内から調達。そして、伝統技術の復活と各分野の職人の育成及び最新技術の開発と導入。それにより、新たな産業が生まれてくる。全てが集約されます。
何よりも、城の復元完成と共に、地域の人達の意識向上と誇りの拠り所と成りえる。

名古屋城の復元が魁となり、各地に史実に基づいた築城事業の到来。
まず第一に破壊すべき「おもちゃの城」は大垣市にある墨俣城です。これを木下藤吉郎が築いた当時のプレハブ工法的な「墨俣一夜城」を出来るだけ忠実に復元させる事。
笑える鉄筋コンクリート造りの墨俣城
目的としては、戦国時代が好きな日本人の観光客の集客や映画、TV等のロケ地として活用してもらうことで、その地域での経済効果を得られる。当然外国人観光客も含む、但しマナー順守は絶対条件とする事。この様に、各地の城が復元出来れば相乗効果が生まれます。地域によっては土塁や石垣だけのままを望む所もあると思いますので、判断は地元優先です。
資金に関しては、政府から6~8割出させたら良い。
政治家や各省庁/官僚が湯水の如く使う税金を考えたら当然な事。ましてや、税金を使い多大な損失を出したとしても謝罪も公表もせず、バレた時には「この程度の損失」問題ありませんよと他人事の様に言い切る自信。これが、民間企業や個人宅の家計だったらどうでしょうか。
現在の政府や官僚は「ヤクザ」の大元締め。明治政府からの伝統。5~6重の税金徴収は当たり前、税という名の「みかじめ料」の制度を悪用し、更に増大させる様子。
四公六民か三公七民にする事が可能であるのに実行すらしない。村意識の強い世間知らずの官僚や当選しても、ただ椅子に座ってるだけで、最低1,400円の年収を得ている無能な国会議員。如何にかならないものか!!無駄な国会議員の数と各省庁の職員が多すぎ。挙句には天下り先を勝手に作り上げていくと云う始末/・・・財団とか。民間企業であれば、経営改善とか人員削減の努力を行うのが当然であるが、人数が足りないと言って増やすだけ/過剰なまでの細分化のし過ぎ=身内の無駄な役職を増やす目的。
ついつい不満が出てしまいました。
各地域で築城ブームが起こり経済の活性化や人の流れが得られます。これにより自治体や国に入る税収が増幅します。これで、お分かり頂けたでしょうか。
築城後の観光客や、映画・TVロケでの収入も然り。
尚、原則、築城に当たり地元企業のみで行う事が鉄則。大手JVでは、地元に経済効果は望めません。職人さんに関しては、人数に限りがあると思いますので、出張制かな。但し定期的な補修が必要となる為、地元での職人さんの育成を行う事も肝要です。

*復元してはいけない城は、江戸城と安土城*
江戸城跡地には「天皇陛下」が居られます。
そして安土城は、織田信長公と言う存在無くして城の意味がない。
故に現状維持です。復元したとしても、配下の大名屋敷まで。

追記、参考として
何故、名古屋城が米軍空襲による虐殺まで残っていたのかご存じですか。
討幕軍に攻撃を受けたとしてもおかしくないはず。
徳川幕府の御三家筆頭でもある尾張徳川家の名古屋城が無傷のまま現存していた事、不思議に思いませんか。
これは、徳川家の祖と成る徳川家康公の「思い」が初代城主である徳川義直公に伝播され、口伝とされるものが幕末まで継承された事に由来。そして、14代・17代徳川慶勝公まで、直系の血筋では無いものの、継承されたことが無傷の名古屋城となった。
14代・17代徳川慶勝公
その思いとは、「勤皇」の精神。直接家康公から言われていないが、幼き義直公が戦の折や死までの間、身近に家康公と接していて感じ取ったもの。これが「勤皇」の精神。日本人独特の読み取り方ですね。
例えて言うのなら、職人技を見て会得する事と同様。
天皇の身に何かあったら徳川幕府より天皇をお守りすると言う重責。尾張徳川家がその気になれば、薩長率いる部隊は壊滅出来ていたのも事実。その後大政奉還となったが、幕府側に就いた弟、15代徳川茂徳の助命にも奔走した。養子であるがゆえに、重臣たちとの間で言えぬ苦労も多大であったこと思われます。
ちなみに、「高須クリニック♪」で有名な高須克弥氏は、高須松平家とは無縁なのですが、徳川家康公が伊賀超えの末辿り着いた、愛知県一色町で、傷を負った家康公を、高須家の祖である小四郎氏が懸命に介抱。家康公は感謝の意として、小四郎氏に庄屋としての地位と「高須」姓と家紋を与えた。その後、高須家は徳川家の威光の元、医業に励み三河で栄えることとなった。家康公が植樹したという「家康手植えの松」が、現在も高須病院には残されているとの事。尚、徳川慶勝公は、高須松平家のご出身です。
現在、NHKで放送している「なんちゃって家康」、まるでどこかの国のファンタジードラマの様な演出方法。見るも無残なドラマになっております。耐え切れず5分程度で観るのを止めてしまいました。
一介の戦国武将にしか過ぎなかった徳川家康が、家康公になったのは秀吉が死去してからです。「勤皇」の信念/精神は、織田信長公と接するうちに、影響された事が多大。
信長公の信念/精神は魂に宿り、そして「命」は無くなっても「魂」は、受け取ることの出来る器量のある人には伝播します。
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